合わせる、合わせさせられる

人に自分を合わせることに、とくに思うことはない。しかし、こちらの意思を無視された上で人に合わせさせられることは、どうにも面白くない。ただ、そのパターンはけっこう多く、なかなか回避しがたく、仕方なく甘んじて受け入れざるを得ないことは少なくない。

もちろん、こちらから合わせようが他人に合わせさせられようが結果として「合わせる」ことになるのなら、たいして違いはないだろ、と言われれば、確かにその通り。でも、そのプロセスで引っかかってしまう。それが単なる自分の我儘だということもわかっている。何もかも自分の思う通りに生きられないことくらいは、さすがに理解しているし、そのこと自体をああだこうだ言うつもりはない。世の中そんなもんだ、ということは諦観ではなく、シンプルな事実として受け止めているし、実際、合わせなければならない状況なら、合わせるしかない。

それでも、これは単に自分の性格的な問題なのだけれど、常に選択肢はこちら側でコントロールしておきたい。結果的には「合わせ」なければならないとしても、「合わせろ」という圧力があると鬱陶しくて反発したくなる。ただ、それで結果として「合わせ」たとしても軍門に下ったとか敗北したとかとは考えない。なぜならそう捉えた瞬間、まさに敗北したことになるから。

というか実際のところ、後から考えると、「合わせる」とか「合わせない」とか別にたいしたことではないことが多い。どのみち合わせなければならないなら合わせるしかないのだし、ヘタに意地を通そうとすると、それはそれでなかなか面倒くさいことになりそうで、まあいいか、と思っておいた方が楽。

ただ、やはり自分から相手に「合わせ」に行くほうが気分は良い。もちろんそれは誰か他人に自分を「合わせてやる」という上から目線の態度ではなく、常に可能な限り能動的に動きたいだけ。「合わせさせられる」という状態はどちらかというと受動的な感じがするから、なんとなくそれが面白くない。要は誰かと何かを擦り合わせようとするときに、最大公約数を探すのではなく、最小公倍数を探すほうが、お互いに痼りが残らないと思う。