謎と答え

個人的に秘かにずっと謎に思っていたことがあり、最近、なんとなくその謎が解けた気がする。とはいえ、もともと絶対的な解答が存在する謎ではないので、「偶然だろ」とか「思い込みだろ」とか「オカルトじゃね?」とか言われると反論できないのだけれど、自分としてはその解答がストンと腑に落ちた。正直、その解答らしきものに気づいた時(なるほど、そういうことだったか)と納得できた。

で、その謎と答えとは「なぜ自分は知恩院が好きなのか?」ということ。厳密にいうと、べつにあらゆる神社仏閣の中でもっとも知恩院が好きなわけではないし、浄土宗の信徒というわけでもない。しかしなぜか昔から京都へ行くと知恩院へ行かないとなんか京都を訪れた気にならないし、実際にあの巨大な三門の前に立つと毎回「ああ、また来られた」と妙にほっとしたような気持ちになる。そして行けば法然上人の御廟にもお参りする。この感覚は、うまく言葉で説明できないのだけれど、とにかく何か他の場所とは違う。

ただ、理由が不明だった。京都に限定しても知恩院より好きな寺はあるし、法然上人に対して特に思い入れもなく、浄土宗にも惹かれない。なのに、京都へ行くと知恩院へ行きたくなるし、実際に京都へ旅行すれば3回に2回は行っている気がするし、行けば落ち着く。少なくとも東山界隈へ行く時はたぶん必ず行っている。ま、知恩院は基本タダだし。

そういう感じなので、ずっと不思議に思っていた。自分の感覚のことなのに、まったく理由がわからなかった。それが最近、ひょんなことから理由らしきものに思い当たった。

きっかけは、前回ここで箸のことをネタにした時、幼稚園を思い出して書いたことだった。それで、書いた後、ふと、幼稚園ってサイトとかあるのかな? と思い、その名称で検索してみると、一発で公式が出た。で、アクセスし、園の概要みたいなページを見て、(そうだったか)とちょっと大袈裟だけれど衝撃みたいなものを受けた。というのも、幼稚園の母体が寺であることは知っていたのだけれど、その寺が知恩院の末寺だった。つまり自意識もクソもないガキの頃に二年間、自分は浄土宗の雰囲気にどっぷりと浸かっていたのだった。たとえば昼寝の記憶を辿ると、みんなで本堂でバスタオルを敷いて寝ていた。しかしそれは今になって思えば、阿弥陀さまや法然上人の前で寝るというなかなかスペシャルな体験だった。だから、その寺のボス的存在である知恩院は自分にとって特別な場所で、そこに行くと心の中の何かスイッチみたいなものが入るのかもしれんな、と思った。そして、そう考えると、なんかすべてが腑に落ちた。

確かにオカルトチックかもしれない。でもこのことに、自分は妙に納得できた。

しかし自分にとって法然上人はとくにヒーローではない。自分の中のそういう存在は別の人だし、南無阿弥陀仏に興味はあまりない。それでも、知恩院へ行くと妙に安らかな気分になれる。そしてその理由の根源にあるのは、おそらく幼稚園の時に無意識のうちに刷り込まれた安らぎだと思う。

今思うと、幼稚園が寺というのは、そんなに悪くないと感じる。仏さまの前で昼寝するとか、考えてみるとけっこう贅沢な体験だし、花祭りには甘茶を飲むのだけれど、そのおかげでお釈迦さまの誕生日も憶えられた。