YOAKEMAE

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今、なぜか島崎藤村『夜明け前』を読んでいる。超超長期間積ん読状態だった新潮文庫の全四冊。ちなみにこれは古本ではなく当時新品で入手したもの。奥付を見ると、なんと昭和五十八年の五十二刷。

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いったい何歳のガキがこんな本を買っとるんじゃ(正確には「買ってもらっとるんじゃ」)という感じなのだけれど、当然の如く当時は買っただけで読まず(正確には「読めず」)、大人になっても読まず(正確には「全く読む気になれず」)、これまでずっと放置していた。

しかし先日、ぼんやりと本棚を眺めていたらこの文庫本が目に入り、(このままだと一生読まずに終わりそうだな)という気がして、ふと(読んでみるか)と思い立ち、読み始めた。そうしたら古い小説のわりに思いのほか文体が古めかしくなく、シンプルで潔い感じすらあり、すっきりしていて、それでいて物語のドライブ感がダイナミックで、いつのまにかぐいぐい引き込まれ、そのまま読み進んでいる。とはいえまだ第一部の上巻(要はまだ四冊のうちの一冊め)の途中で、まだまだ先は長いけれども。しかし全四巻は確かに長いけれど、たとえば三島の『豊穣の海』なんかも同じく全四巻で、そちらはけっこうサクッと読んだので、まあそのうちには読み終えられると思う。

尤も島崎藤村は既に著作権が切れているので青空文庫とかKindleとかならタダで読める。『夜明け前』も、もちろんある。でも、これだけ古い文庫本になると、モノとしてなんとも言えない『味』があって、ぶっちゃけたまらない。『夜明け前』が現在何刷で、中がどういう紙質で、どんなカバーデザインの本なのか知らないけれど、この手持ちの文庫本はやばいくらい『日本文学』感がある。細かい文字でびっしりと埋められた薄い紙のページは年代物らしく茶色に焼けていて、表紙のタイトルのフォントなんか激シブ。まあふつうに見たらふつうに古本としか思われない状態なのだけれども、もともと古い小説なので、その雰囲気は全くマイナス要素ではない。と言いつつ外に持ち出す時は、自意識過剰なのだろうけれど他人に表紙をチラ見されると恥ずかしいので、カバーを付けているけれど。

他人からしたらクソほどどうでもいいことであるのだけれど、自分の場合、こういう所謂純文学系の小説は、基本的に死人のものしか読まない。例外は村上春樹さんと村上龍さんくらいで、あとは谷崎とか中上健次とか、ほとんどもうこの世にはいない人の本ばかり。逆にミステリーとかサスペンスとかノアールとかなら、外国人までひっくるめても生きている人の本のほうが多そうだけれど。

因みに、しっかりガッツリと本を読む時は、たいていイヤホンで何か聴いている。今は主にSpotifyのフォーカス系のプレイリストを垂れ流し。ただ、無料プランなので(サブスクは金額がどうこうというより、やめる時に面倒くさいことが多そうだから手を出したくない)、定期的に出てくるシャッフルおじさんがアレだけど。というか広告といってもこのおじさんと自社配信らしいポッドキャストの宣伝しか出てこない気がする。ま、それはともかく、できればこのシャッフルおじさんを、英語を話す外国人のシャッフルお姉さんに変わってもらえると、かなりありがたい。