書ケナイ

昔から苦手というか、どうしてもまともに書けないものがある。それは、読書感想文。本を読むこと自体は、わりあい好きな方だと思うけれど、しかしいざ「感想文を書け」と言われると、どうしても書けない。

ぶっちゃけ、どんな本を読んでも、感想としては「面白かった」か「つまらなかった」かの一行で済んでしまう。百歩譲って「どこの部分が面白かったのか」なら、ギリで説明できる場合はあるけれど、たいていはやはり単に「面白かった」「つまらんかった」で終わってしまう。かろうじて「これは面白かったわ」と人にオススメできるパターンなら、少しだけある。たとえば、何ヶ月か前に読んだ「幼年期の終わり」とか。ただ、本なんてものは、小説であれノンフィクションであれ実用書の類であれ、その人の好みがあるので、自分がどれだけ面白かったとしても強くは推せない。

そんな自分だけど、ずいぶん昔、「深夜特急」にハマって、文庫で全部揃え、読み終わると人に「これ面白いぞ」と勧めまくって貸しまくっていたことがある。そしてたいていは「面白かったわ」という反応と共に返ってきた。誰に対して貸すときも、内容について詳しい説明はせず「とにかく返すのはいつでもいいから、暇な時に読んでみ、ハマるから」と単純に言って毎回誰にでも全巻まとめて貸していた。しかし、もう最後にいつ誰に貸したか覚えていないけれど、誰かに貸したまま返ってこず、どこかへ消えてしまった。なので、今はもう手元に一冊もない。

それはともかく。

今のオンライン上には、金をもらっているわけでもないのに丁寧な感想を載せる人が少なくなくて、すごいなあ、と嫌味でも何でもなく素直に思ってしまう。自分なんか、仮にカネをもらっても書けそうにない。こういうタイプなので、子供の頃の「読書感想文を書け」という課題が大嫌いで、まともに書けたことがなかった。今なら苦手でもネットから感想文っぽいものを拾ってきて継ぎ接ぎして加工してそれっぽいモノを仕上げるインチキも可能だろうけれど、自分のガキ時分にそんな方法はなかった。

ちなみに「星いくつ」というのも無理っぽい。自分の場合、星が五点で満点ならたいていのものが「星五つ」か「星一つ(或いはゼロ)」に二極化してしまう。例外があるとすれば、それは好きな作家の作品群の中での星付け。たとえば自分は村上龍さんがかなり好きなのだけれど、その著作の中で「これは星四つ」とか「星二つ」とか「文句なしの星五つ」とか「こんなもん星一つも無理や」みたいなことはなんとかできる。ただし、こういうのはめちゃくちゃ個人的な趣味や嗜好の結果なので、単なるセンズリに過ぎず説得力には乏しい。だいたい、好きな作家というのはいろいろなジャンルに何人かいるけれど、だからといってその人の書いたもの全てを盲信的に好いているかというと、そんなことは決してない。「基本的にこの人の本は好きだけど、これはなあ」と思う作品はふつうに誰に対してでもある。

こんな感じで、自分は感想文というものを書けないし、個人の感想に普遍性を求めるのは無理と思っているので、プロの書評家みたいな人であれ、ネット上の素人評論家であれ、感想文をアテにして本を選ぶということはしない。自分が読んだ後に、他の人はどう感じたのかなと興味を抱きつつ検索してみることは、たまにある。しかし、買おうとしている時に、検索するとしても、それはテーマとかあらすじとかの確認のためで、他人の感想に左右されることはない。もしアテにすることがあるとしたら、それは100人のうち99人くらいまでの感想文が「こんなもんクソや、読むだけ時間の無駄」という傾向でまとまっているパターン。この手のモノは、たぶん本当にクソ。逆に、全体の印象として多くの人が「良かった」とか「面白かった」とか高評価が圧倒的な場合も、おそらく少なくともハズレではないだろうな、という判断材料の大雑把な目安にはなる。しかしネットにはステマが蔓延っているので、あまりに不自然なモノはちゃんと見分ける必要がある。ただ、個人的感覚として、基本的にレビューみたいなものは、あえてネガティブなものは上げる必要なく良いものを褒めたほうがいい、という思いがあるので、個々の低評価をアテにすることは滅多にない。というか、はじめから気に留めない。

そういえば、感想文ではないけれど、昔、国語の教科書で読んだ記憶のある或る小説に、登場人物が「鮨屋で寿司を食って出てくる時に醤油のついた指を暖簾で拭く」というシーンがあって、その部分だけなぜか今でも鮮烈に印象が残っているのだけれど、最近までそれが何という小説なのか全くわからなかった。というか、なぜか勝手に何の根拠もなく夏目漱石の小説の何かの中の一場面だと思い込んでいた。で、ちょっと前に妙に気になり、ネット検索してみたら、知恵袋に、まんま自分と同じように夏目漱石だと思い込んでいる質問者の人がいて、しかしそれは勘違いで、安岡章太郎の「幸福」という小説だと答えてくれる回答者の人がいた。そうして、読んでからン十年の年月を経て、夏目漱石ではなく安岡章太郎の小説の中の一場面だということが判明した。しばしば「Yahoo!知恵遅れ」と揶揄される知恵袋だけれど、たまには役に立つな、と思った。

それにしても、なぜ夏目漱石と勘違いして記憶していたのか、まったく不明。というか不思議。ま、国語の教科書なんてそれくらい適当にしか読んでいなかったということなのだろうけれど。